ファラデーの伝- イタリア入り・スイス・デビー夫人 -

十四、イタリア入り

 十二月二十九日にパリを立ち、郊外のフォンテン・ブローを過ぐる際、折りしも森林は一面に結晶した白い氷で被われて、非常な美観を呈していた。リオン、モンペリエ、ニースを過ぎて、地中海の岸にヨウ素を探し、翌一八一四年の正月終りには、六千尺のコール・デ・タンデの山雪を越えて、イタリアに入った。チューリンにて謝肉祭に逢い、ゲノアにては電気魚の実験をなし、これの起す電気にて水の分解されるや否やをしらべた。

 ゲノアから小舟にてレリシという所に渡ったが、危くも難破せんとした。それよりフローレンスに向った。フローレンスでは、アカデミア・デル・シメント(Academia del Cimento)に行って、図書館、庭園、博物館を見物した。ここにはガリレオの作った望遠鏡があり、筒は紙と木とで、両端にレンズがはめてあるだけだが、ガリレオはこんな粗末な物で、木星の衛星を発見したのだ。またいろいろの磁石を集めたのがあったが、中には百五十斤の重さの天然磁石もあった。タスカニイの大公爵の所有にかかる大きな「焼きガラス」も見た。つまり大きなレンズに外ならぬ。これにて太陽の光を集め、酸素でダイヤモンドを焼き、ダイヤモンドは純粋の炭素より成ることを確めた。

 四月初めにはローマに向い、そこからファラデーは旅行の事どもを書いた長い手紙を母親に送り、また元の主人のリボーにも手紙を出した。そのうちには、政治上のごたごたの事や、デビーの名声は到るところ素晴らしいため、自由に旅行できることも書いてある。またパリが同盟軍に占領された由も書き加えてある。

 ローマでは、モリシニが鋼鉄の針に太陽の光をあてて磁石にするという、あやしい実験を見、月夜にコロシウムの廃趾を越え、朝早くカンパニアの原を過ぎ、ネープルに向った。匪徒(ひと)の恐れありというので、護衛兵をも附した。

 五月半ばには再度ベスビアスに登ったが、二度目の時は丁度噴火のあった際であり、それに噴火口に着いたのが夕方の七時半だったので、一段の壮観をほしいままにした。

 六月にはテルニに行って、大瀑布の霧にうつれる虹を見たが、このとき虹の円形の全体を見ることができた。アペナイン山を過ぎて、ミランに着いたのは七月十七日。有名なボルタはこの時もう老人であったが、それでも頗る壮健で、遠来の珍客たるデビーに敬意を表せんとて、伯爵の大礼服をつけて訪ねて来て、デビーの略服にかえって驚かされた。

 コモ湖を過ぎてゼネバに来り、しばらくここに滞在した。

十五、スイス

 この間に、友人アボットに手紙を出して、フランス語とイタリア語との比較や、パリおよびローマの文明の傾向を論じたりしたが、一方では王立協会の前途について心配し、なおその一節には、

「旅行から受くる利益と愉快とを貴ぶことはもちろんである。しかし本国に帰ろうと決心した事が度々ある。結局再び考えなおして、そのままにして置いた。」

「科学上の智識を得るには屈竟(くっきょう)の機会であるから、サー・デビーと共に旅行を続けようと思う。けれども、他方ではこの利益を受けんがために、多くの犠牲を払わねばならぬのは辛い。この犠牲たるや、下賤の者は左程と思わぬであろうが、自分は平然としていられない。」

 そうかと思うと、

「サー・デビーはヨウ素の実験を繰りかえしている。エム・ピクテーの所の三角稜(プリズム)を借りて、そのスペクトルを作った。」

 それから、終りには、

「近頃は漁猟と銃猟とをし、ゼネバの原にてたくさんの鶉(うずら)をとり、ローン河にては鱒(ます)を漁った。」

などとある。

十六、デビー夫人

 かくファラデーが、辛棒出来かねる様にいうているのは、そもそも何の事件であるか。これにはデビイの事をちょっと述べて置く。

 デビーが一八〇一年に始めてロンドンに出て来たときは、田舎生れの蛮カラだったが、都会の風に吹かれて来ると、大のハイカラになりすまし、時代の崇拝者となり、美人の評判高かった金持の後家と結婚し、従男爵に納まってサー(Sir)すなわち準男爵を名前に附けるようになり、上流社会の人々と盛んに交際した。この度の旅行にもこの夫人が同行したが、夫人は平素デビーの書記兼助手たるファラデーを眼下に見下しておったらしい。

 さて上に述べた手紙に対して、アボットは何が不快であるかと訊(き)いてよこした。ファラデーはこの手紙を受取って、ローマで十二枚にわたる長文の返事を出した。これは一月の事だが、その後二月二十三日にも手紙を出した。この時には事件がやや平穏になっていた時なので、

「サー・デビーが英国を出立する前、下僕が一緒に行くことを断った。時がないので、代りを探すことも出来なくて、サー・デビーは非常に困りぬいた。そこで、余に、パリに着くまででよいから、非常に必要の事だけ代りをしてはくれまいか、パリに行けば下僕を雇うから、と言われた。余は多少不平ではあったが、とにかく承知をした。しかしパリに来て見ても、下僕は見当らない。第一、英国人がいない。また丁度良いフランス人があっても、その人は余に英語を話せない。リオンに行ったが無い。モンペリエに行っても無い。ゼネバでも、フローレンスでも、ローマでも、やはりない。とうとうイタリア旅行中なかった。しまいには、雇おうともしなかったらしい。つまり英国を出立した時と全く同一の状態のままなのである。それゆえ初めから余の同意しない事を、余のなすべき事としてしまった。これは余がなすことを望まない事であって、サー・デビーと一緒に旅行している以上はなさないわけには行かないことなのだ。しかも実際はというと、かかる用は少ない。それにサー・デビーは昔から自分の事は自分でする習慣がついているので、僕のなすべき用はほとんどない。また余がそれをするのを好まぬことも、余がなすべき務と思っておらぬことも、知りぬいているから、不快と思うような事は余にさせない様に気をつけてくれる。しかしデビー夫人の方は、そういう人ではない、自分の権威を振りまわすことを好み、余を圧服せんとするので、時々余と争になることがある。」

「しかしサー・デビーは、その土地で女中を雇うことをつとめ、これが夫人の御用をする様になったので、余はいくぶんか不快でなくなった。」

と書いてある。

 かような風習は欧洲と日本とでは大いに違うているので、少し註解を附して置く。欧洲では、下女を雇っても、初めから定めた仕事の外は、主人も命じないし、命じてもしない。夜の八時には用をしまうことになっていると、たとい客が来ておろうと、そんな事にはかまわない。八時になれば、さっさと用をやめて、自分の室に帰るなり、私用で外出するなりする。特別の場合で、下女が承知すれば用をさせるが、そのときは特別の手当をやらねばならぬ。デビーはファラデーに取っては恩人であるから、日本流にすれば、少々は嫌やな事もなしてよさそうに思われるが、そうは行かない。この点はファラデーのいう所に理がある。しかし他方で、ファラデーは権力に抑えられることを非常に嫌った人で、また決して穏かな怒りぽくない人では無かったのである。

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入力:松本吉彦、松本庄八 校正:小林繁雄

このファイルは、青空文庫さんで作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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